高山市の歴史

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地勢、気候縄文〜古墳時代白鳳・奈良時代平安時代〜戦国時代金森時代幕府直轄地(天領)時代明治以降歴史街道と河川

地勢、気候

 飛騨国(ひだのくに)は、東西を険しい山に、南北を厳しい河川峡谷(きょうこく)に囲まれている。盆地といえば高山、国府、古川盆地であり、あとは幾筋も伸びる谷筋沿いに、ポツンポツンと小さな平地が広がっている。飛騨は土地のほとんどが山林で、その森林率は92.5%に及ぶ。世界の平均が30%台、日本国内の平均が60%台と比べ、際立って森林の面積が多い。
 緑豊かな飛騨は日本列島のほぼ中央に位置し、高山盆地は内陸性盆地型気候である。昼夜、夏冬の気候温度差が大きく、湿度が低い。冬は大変寒く、冷え込むときは氷点下15度近くまでも下がることがあり、新雪はサラサラとしてホウキでないと除雪できないほどである。
 高山盆地の周辺は、北の日本海に流れる宮川、南の太平洋へ流れる飛騨川沿いに、まとまった集落が小さな平地に広がり、支流の谷沿いにも小集落が多く散存している。また、高山盆地からは東に乗鞍岳、焼岳、穂高岳、槍ヶ岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳、南東に御岳、北西に白山が遠望できる環境にある。

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縄文〜古墳時代

 高山市には縄文時代の遺跡が数多くある。長野、美濃、東海、北陸方面の東西南北方向から高山へ縄文文化が押し寄せてきて、縄文土器様式は各方面の特徴ある様式を取り入れ、複雑、華やかな縄文文化を発展させている。国史跡堂の上(どうのそら)遺跡(久々野町)や国重文浅鉢型土器(高山市郷土館展示中)をはじめ、高山市内各地域に美麗な土器と異形の石器が発見され、市内の展示施設で見ることができる。
 古墳時代、高山市では早くから古墳が築造されてきた。国府、古川盆地の豊かな水田地帯の経済力を背景に、地方豪族権威の象徴である古墳文化が開けたのである。5世紀から7世紀代の古墳が所在し、さらには終末期の横穴も発見されている。
 仁徳天皇の65年(西暦377年)、『日本書紀』に飛騨の両面宿儺(りょうめんすくな)の乱が記載される。皇命に従わなかったとして、将軍難波根子岳振熊(なにわのねこたけふるくま)によって討伐されたとある。伝説として丹生川町の鍾乳洞にある「出羽ヶ平」に住んでいたとかあり、千光寺には円空彫刻などの宿儺像が祀られている。

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白鳳・奈良時代

「飛騨匠(ひだのたくみ)」という言葉はあまりにも知られていて、広い職域、広い区域の優れた職人を指すようになっている。大化の改新(645年)では税制が確立したが、飛騨では律令制度以前より顕在していた飛騨の匠の技を、中央政府が都の造営に活用するために制度化し、その代わりに庸、調といった税を免じた。
 飛騨の匠制度は、家50戸ごとに10人ずつが労役として割り当てられ、飛騨からは100人前後の匠が都へ行き、宮殿や門、寺院などを造る仕事にたずさわっている。飛騨国の山林は元来樹種が多く、銘木、良質で丈夫な木材が豊富で、さらに里山に山が近く、技術の向上に環境が整っていた。さらには、都で建築技術を得て飛騨の匠の名声は益々高まっていった。
 飛騨には、古代寺院が14ヶ寺もある。白鳳寺院は、国府、古川盆地に多いが、奈良時代になると国分寺(総和町)、国分尼寺(岡本町2丁目)が高山に造られ、国府が高山盆地に置かれた。
 現在の国分寺本堂建物は室町時代の建築だが、約1m下層には奈良時代の金堂建物跡が確認されている。さらには、国分尼寺も辻ヶ森三社境内地に発掘調査され、金堂、講堂建物跡が発見され、保存されている。

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平安時代〜戦国時代

 平安時代、飛騨は平家の支配を受け、平安時代末、三仏寺城(三福寺町)には平時輔(たいらのときすけ)が飛騨の守(かみ)として在城している。鎌倉時代になると、高山市郊外の北方国府町周辺に政治の中心地が移ったといわれる。
 室町時代になると、京極家の被官多賀徳言が文安年中(1444〜)天神山城(多賀山城ともいう。現在の城山)を築いた。後、永正年間(1504〜)高山外記(たかやまげき)が天神山(てんじんやま)(現在の城山)に城を築き、外記の城の近くを高山と呼ぶようになったという。
 戦国時代になると、三木氏が南方から高山へ進出して、高山外記らを攻略し、松倉城を築城。さらに北方の江間氏を滅して飛騨を手中に収めた。しかし、富山の佐々成政(さっさなりまさ)と同盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主であった金森長近に飛騨の攻略を命じたのである。長近は、養子可重と2隊に分かれて三木氏を攻め、天正13年(1585)飛騨を征圧した。
 荘川町の向牧戸城では進出をはばまれ、いったん引いて郡上の遠藤氏の加勢を得てようやく城を落とし、進軍できたという。

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金森時代

 天正14年(1586)、金森長近は飛騨国3万3千の石の国主として入府し、ここから金森氏6代、107年の政治が始まる。関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこうずち)1万8千石、河内国金田(かわちのくにかねた・大阪府)3万石が加増されている。入国した長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後三年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。
 また、城と同時に城下町の工事も行われている。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところ(三町)を町人の町とし、京都になぞられて東山に寺院群を設けた。農民一揆の対策としては、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院)を高山城と向かい合わせに配置し、人の心を安め、宗和流茶道を始め、寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行った。
 高山における金森氏は6代107年間続いたが、元禄5年(1692)7月28日、頼_(よりとき)の時代に突然、出羽国上ノ山(でわのくにかみのやま・山形県)に転封となって金森氏による政治は終わった。
 頼_(よりとき)は上ノ山に5年間いたが、元禄10年(1697)、今度は美濃国郡上藩に転封となった。頼_は江戸芝の屋敷で亡くなり、孫の頼錦(よりかね)が後を継ぎ、幕府の奏者役(そうじゃやく)を命ぜられた。そのため多くの費用を必要としたこともあり、年貢を定免(じょうめん)法から検見(けみ)取りに改めたため4年半にわたる「宝暦郡上(ほうれきぐじょう)騒動」が起っている。これで金森の本家はとりつぶされてしまったが、分家の旗本左京(さきょう)家は3千石のまま越前に領地替えになり、現在も越前市に子孫が在住している。

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幕府直轄地(天領)時代

 金森氏移封後の飛騨は幕府直轄地となり、代官には関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀(つなのり)が高山城在藩を命ぜられた。
 元禄8年(1695)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全て終えて帰藩した。今は「高山城跡」として県史跡に指定され、緑豊かな城山公園になっている。幕府直轄地時代は25代、177年間続き11代までが代官、12代大原彦四郎から郡代に昇格した。
 明和8年(1771)、大原代官は幕府の命令で飛州全山に官材の元伐(もとぎり)を中止、安永2年(1773)には飛騨の村々の代表を集め、検地のし直しを言い渡した。飛騨の農民たちは田を少ししか持っておらず、新しい年貢がさらに厳しくなると越訴(おっそ)、駕籠訴(かごそ)などをして検地中止を願い出た。ここに明和8年(1771)から寛政元年(1789)までの大原父子2代、18年間にわたる農民一揆が起きた。その中に主な事件が3つ含まれており、明和、安永、天明騒動と名づけられている。明和、安永騒動では9千人余の農民が罰せられ、若き指導者本郷村善九郎ら、多くの農民代表が犠牲になった。しかし、天明騒動では大原亀五郎郡代の政治不正が問われて、郡代は八丈島へ流罪、農民側の罪は軽くて済んでいる。
 善政をつくした代官・郡代もいる。7代長谷川忠崇(ただたか)は『飛州志』を著している。第8代幸田善太夫(こうだぜんだゆう)は飢饉のために馬れいしょ(ジャガイモ)を農民に作らせ、飛騨では「善太夫(ぜんだゆう)いも」、「せんだいも」とも今も呼ぶ。19代大井帯刀(たてわき)は天保飢饉の際に、飛騨はもちろん出張陣屋(越前本保)領内でも救済措置を講じた。20代豊田藤之進(とよたふじのしん)は渋草焼を起こし、養蚕を盛んにしている。

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明治以降

 明治維新により東山道鎮撫使竹澤寛三郎(とうざんどうちんぶしたけざわかんさぶろう)が入国し、高山陣屋に天朝御用所の高札を立てた。
 明治元年(1868)5月には飛騨県がおかれ、同年6月高山県となり、さらに明治4年(1871)筑摩県に移管されるまでの3年6ヶ月間、梅村速水、宮原積の二人の知事により飛騨が治められ、また、明治9年(1876)、美濃と飛騨を合わせた岐阜県が成立し、現在に至っている。
 町村制は、明治8年(1875)に高山一之町(いちのまち)村、二之町(にのまち)村、三之町(さんのまち)村が合併して高山町になった。岐阜県では一番大きい町であった。その後、明治22年(1889)には、15,385人で新しい町制が実施され、大正15年(1926)に灘村を合併、昭和11年(1936)に大名田町を合併して高山市になった。昭和18年(1943)に上枝村、昭和30年(1955)に大八賀村を合併している。平成17年(2005)2月1日、10市町村が合併して新高山市が合併したのである。
 近代以降の主な歴史を見ると、明治2年(1869)梅村騒動、昭和9年(1934)高山線開通、昭和40年(1965)岐阜国体、昭和46年(1971)飛騨の里オープン、平成8年11月1日、現在の花岡町の新庁舎で業務が開始された。

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歴史街道と河川

 新高山市には、東西南北方向に江戸時代の重要歴史街道がある。東に朝日町、高根町を通る江戸街道、北に国府町、上宝町を通る越中東・西街道、西に清見町、荘川町を通る郡上(白川)街道、南に一之宮町、久々野町を通る尾張(益田)街道である。ほかに、丹生川町、上宝町を通る平湯街道もある。
 また、郊外の旧町村域は、北へ流れる宮川、南へ流れる飛騨川へと流れ込む河川沿いにまとまりをしていた。河川沿いに特徴ある文化が発展をしてきた経緯があり、芸能、民俗、天然記念物、自然山岳景観など見るべきものが多いのである。

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高山市観光課 〒506-8555 岐阜県高山市 花岡町2丁目18番地TEL(0577)32-3333